群馬県警山岳救助隊になくてはならない人として多くの岳人に知られてきた馬場保男さんがこの3月31日に警察を退職されました。定年退職ではなく、55歳という年齢です。次の仕事で谷川岳肩の小屋の管理運営をするための退職となったのです。5月16日東京神楽坂の「神楽坂エミール」にて馬場さんに感謝し今後の門出を祝う会が催されました。

馬場さんの挨拶から・・・

高校を卒業し、群馬県警に就職したのが1967年です。父も警察官でした。前橋商高の山岳部時代から八木原先輩に絞られはしませんでしたが教えを受け、県警でも谷川岳警備隊を志しました。警察学校を出た翌1968年、沼田警察署及び谷川岳警備隊配属を拝命いたしました。以来36年に渡って警備隊の仕事を続けてこられたのも群馬県警はもとより群馬県、水上町の協力、また谷川岳を訪れる登山者の皆さんの協力があったからと思っています。
拝命時の谷川岳での死者は436名でした。最初の出動命令は1968年5月でした。それからこの3月31日の退職までに300名余の方を救助することが出来ました。救助活動では現場に居合わせた登山者の皆さんが初期の救助活動を行ってくれていて我々が引き継ぐといったことが多かったようにおもいます。谷川岳救助隊は9名いますが実際に岩場などでの救助に対応できるのはその半数の4名でした。
肩の小屋の経営を任されることとなりましたので夫婦二人で頑張っていきたいとおもっています。夫婦二人が食えればいいとおもっています。ですから宿泊代も6500円くらいと安くする予定です。食事は私が作りますのでそれなりのものですが。(笑い)心をこめて作ります。確実に儲かる予定です。儲かったお金は、山岳記念館の設立準備金として全額寄付したいとおもっています。これは公約です。今公約しておかないと儲かってからではどこか他に使いたくなってしまうかもしれませんので今公約しておきます。7月の営業開始となりますのでよろしくおねがいいたします。
今日はありがとうございました。

日本山岳協会八木原圀明専務理事

前商時代から群馬ミヤマ山岳会を通しての先輩である(社)日本山岳協会、八木原圀明専務理事の挨拶から始まりました。

日本ヒマラヤ協会、山森欣一会長

日本ヒマラヤ協会、山森欣一会長の挨拶。

警視庁青梅警察署救助隊、金邦夫副隊長

警視庁青梅警察署救助隊、金邦夫副隊長の挨拶。
自身が馬場さんに背負われて救助された様子を語っていました。
元は一番☆のパートナーです。

西内博日山協遭難対策委員長より感謝状、記念品が贈呈されました。

(社)日本山岳協会、日本勤労者山岳連盟、東京都山岳連盟の三団体を代表して西内博日山協遭難対策委員長より感謝状、記念品が贈呈されました。

一番☆も突然のご指名ではありましたが一言お礼を申し上げておきました。

参加者は遭難対策関係を中心にそうそうたる顔ぶれが揃っていました。

左からAGS−Jの松島利夫さん、南ルートの南博人さん、雲表の松本龍雄さんです。

警視庁の金邦夫さん、JCCの大西登さんです。

あとは、一番☆も呑みに専念していたため二次回の席(市ヶ谷のHOBO)から。

ベルニナの堀江さんと元緑山岳会の星川さん(HOBOのオーナー)です。



馬場さんありがとうございました。


 一番☆も直接お世話になること3回、一回は14年前、JCCの故津田泰男君の幽の沢での滑落事故では事故発生の1月から発見の7月まで大変お世話になりました。
また、2年前の滝沢での滑落事故のとき駆けつけていただきました。フルちゃんをツウェルトに包んで降ろしていくと一の沢出合まで登ってきてくれていたのは馬場さんでした。
「エッ?!勝野さんのパーティだったの?」
また、昨年3月には一番☆の家内の勘違いで下山日が過ぎていると思い込み、馬場さんに捜索依頼を出すということもありました。

36年間の長い谷川岳救助隊での功績は如何に公務とはいえ馬場さんの人柄があったればこそと思えます。
救助活動を一番☆がお手伝いした際にいつも思ったことは、安心感と山家(やまや)の感性を持ち合わせた方だということでした。馬場さんが警察官だということを救助活動中に思うことはありませんでした。隊長でありながら激高するところを一回としてみることもありませんでした。これだけでもすばらしい人柄を感じさせるに充分なものでした。
今年の1月一の倉沢からの帰り道、一番☆とDr.Mがマチガ沢で休んでいると年配の登山者が独り入山してきました。近づくとそれは馬場さんだったのです。いかついイメージの馬場さんとは違ってなぜか中高年の一般登山者に見えてしまったのです。ひとしきり立ち話ののちに馬場さんは一の倉沢へ、我々は帰途につこうとしていた時です。200mほど行過ぎた馬場さんが立ち止まって私の名を呼んだのです。「かつのさーん!今日帰るの?」「俺、話があるんだわ!」と言って雪上を駆けてくるではないですか、何事かなと私も立ちすくんでしまいました。それがこの話だったのです。「3月19日には救助隊を辞めて、3月31日に警察官をやめることになりました。」私も思わず「長いことご苦労様でした、ありがとうございました」と返していました。私は一登山者として馬場さんを知り、年に数回お会いし、谷川岳の遭難や事故では協力する関係ではありましたがそれ以上の関係ではありませんでした。しかし、馬場さんの存在は絶大で信頼感とともになくてはならない人と感じていました。土合までの帰り道、昔に思いを馳せる一番☆がありました。
何度か事故現場での救助に馬場さんを呼びつけたりしたこともあります。10数年前一の倉沢南稜フランケを登っていたパーティが滑落して宙吊りになったことがあります。凹状ルートを登ろうと1P目を登っていた一番☆はしかたなく現場へ急行し救助活動を開始しましたが、人数が揃ったわりには救助活動に使えそうな面子ではないと感じた私は馬場さんに連絡をとろうとしました。当時は携帯電話なんてものはなく、たまたま持っていたトランシーバーを駆使して馬場さんに連絡をとったことがありました。「他の人じゃだめだ!馬場さんに連絡してくれ!」なんてトランシーバーの相手にむかって怒鳴っていたことを思い出します。
また、同じく南稜フランケダイレクトを登っていたパーティが滑落骨折して壁にいるが天候が悪く救助出来ないということが10数年前に起こりました。当日の私は慰霊祭に参加のため土合にいたのですが急遽救助隊に組み入れられ翌日の救助活動を行うこととなりました。翌日の救助ということもあり、その日はしたたかに酔っ払う羽目となり、早朝に馬場さんと会ったときは酒の匂いがプンプンする状態だったようです。フラフラした足取りの私は、ヒョングリの高巻き個所を登るのも億劫なのでヒョングリ滝の脇をノーザイルで直登するルートをとりました。最初の急な個所を登っていたとき確かにスタンスに置いたつもりの足が空中を空回り、ヒョングリ滝の滝壷の端にものの見事にザブーンとはまったのです。それを高巻きルートから馬場さんほか救助隊の皆さんに見られてしまったのでした。怪我人は変形チムニー上にいるということで登りだしたのですが、変形チムニー下で馬場さんが私に言ったのでした。「勝野さんはここで待ってた方がよくないですか?!」私もテールリッジで大汗をかいて登った為に大分二日酔いも回復してきており、「とんでもない、現場に行きますよ!現場にそんなに人間は要らないから馬場さんはここで待っててください。」と意地をはったのでした。現場へ向かったのは、JCCの犬木、勝野と雲表の伊藤(準一)と他一名でした。つまりJCCと雲表クラブの混成救助隊だったのです。変形チムニー取り付きに殆どの救助隊メンバーを残し、2P上に馬場さんともう一人を残した配置で救助活動は開始されました。現場に着くといきなり「勝野さんじゃない!」怪我人が私をしっているようです。近づいてみると怪我人は安○淳さん、パーティには昨年亡くなった豊○さんと女性1名の3人パーティだったのです。事故現場に着くまで誰を救助しに行くのかも確認せず、馬場さんの頼みじゃ聞かないわけにいかないという一心で行った救助活動でした。

最後に馬場さんと行動したのは今年3月の一の倉沢滝沢スラブでの遭難事故でした。ベルニナ山岳会の単独行者が滑落し死亡、まだ滝沢第三スラブF4付近に他の単独のクライマーがいるという状況でした。馬場隊長ほか県警救助隊4名も出動していましたが、馬場さんが私に言ったのです。「もう一人壁にいるのをどうやって救助するか一緒にヘリに乗って見てくれませんか。」もちろん私に二言はなく「いいですよ、行きましょう。」防災ヘリを待つ間の会話は4月からの肩の小屋経営の話でした。谷川岳救助隊の最後の最後まで頑張っておられたことを知っています。馬場隊長の存在は大きく、後に続く救助隊長の方もたいへんかもしれません。若い力のある隊員が育っていることを聞いています。私も馬場さんのときと同様に協力していきたいとおもっています。
3月の捜索の際に仰っていただいた「酒あげておきますから、一緒に飲みましょう」の言葉で肩の小屋経由の谷川岳登山が増えてしまいそうです。
最後にもう一度、ありがとうございました。

平成15年5月18日
 日本アルパインガイド協会会員
日本クライマースクラブ会員
勝野惇司


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