「私の愛した山々」と題した加々良尚武(かがらよしたけ)さんの版画集が送られて来ました。奥様の 加々良敏枝さんの発行によるものでした。
160頁に及ぶ膨大な版画集です。新座山の会の会報「山道」の表紙を飾ってくれたものです。一番☆宅にもその何冊かがあります。

「戸隠奥社の杉並木」

少し紹介します。

「戸隠奥社の杉並木」
 この秋10月、飯縄山、戸隠山に登る。
 前日、飯縄山の紅葉を満喫した中社に宿をとります。
 翌早朝、宿を出発し、奥社入り口に車をおきます。早朝のため、参拝者は先行する白装束の一組だけでした。随神門を過ぎると過ぎの古木の並木です。
 朝日をうけた木肌の陰影、足元の落ち葉、静寂さ、ぴりっとする寒気、なにかが背筋を通り抜ける荘厳さを感じました。

「岩殿山」

「岩殿山」
 連休も終わった。皆それぞれの山行を楽しんだのだろう。連休の無い悲しい職場の私は、同じようにさびしい連休を過ごした会員を誘って近場の山行をとのつもりだった。だが参加した仲間の中には五月になって三回目の山行よ!てな人もいて少々あてが外れた。
 中央高速大月あたり甲府に向かって右上に岩峰が見える。悲しい伝説のある山だ。敵の手に掛かるよりもこの手でと、いとしい我が子を突き落とし、わが身は自害・・・という稚児落としの岩場です。
 何はともあれ、天気は晴朗、富士も顔を出し、藤の花も咲いていて、なんともご機嫌の山行でした。


加々良さんは新座山の会の創立会員の一人

加々良さんは新座山の会の創立会員の一人で平成13年の12月29日にくも膜下出血で倒れ帰らぬ人となりました。享年60歳でした。東京農大WV部から始まった自然との触れ合いは絶えることなく続き亡くなられる時点では新座山の会会長として指導的な立場にあった 加々良さんでした。
初代会長の秋山さんのあとを引き継ぐものでした。
新座山の会と一番☆の出会いは創立当初にさかのぼるものと思います。当時会長として会員の登山技術向上に腐心していた秋山さんが私のところを訪ねたことに始まります。当初は秋山会長の技術向上についてのみ私も対応していたわけです。よって、内容も少々ハードなものでした。人工登攀のトレーニングもなしに穂高屏風岩の大スラブルートの登攀や一の倉沢衝立岩の登攀をぶっつけで行ったのです。基礎技術についてはそれらの登攀の過程で教えるといったものです。

それはこんな感じで行われたのです。秋山さんの並外れた運動能力を感じ取っていた私は、いきなり穂高屏風岩東壁に連れて行きました。「アブミというのが必要なので用意してきて!」とは言ってありましたが、横尾山荘で確認したそれは、片側一段のなんとも奇妙なものでした。そんなこともあろうかと私は二セット用意していたのです。大スラブ取り付きで秋山さんに言いました。「私の登り方を見ていれば解るから!」
同行の女性が唖然としていました。「えっ?人工登攀したこと無いんですか?」
「大丈夫、俺が登れるって言ったからには絶対に登れるから・・・」
秋山さんにとっては慰めにもならない言葉をかけて登りだしたのです。さすがに屏風岩の登攀は緊張を強いられたようではありましたが快調に登って、涸沢ヒュッテの夕食には充分間に合ったのでした。
一の倉沢衝立岩の登攀はこんなことでした。谷川岳三ルンゼを登るべく一の倉沢に向かったのですが、衝立のパーティが少ないことに気づき「よし、今日はダイレクトカンテルートにしよう」と勝手にルートを変更してしまったのです。
どこを登っても秋山さんのトレーニングにはなる、との思いからでした。秋山さんにとっても三ルンゼがどういうところで、衝立岩がどういうところかも解っていない時でした。
こんなスパルタ式トレーニングを一年も重ねたころ、秋山さんの立場を聞かされる機会があり、新座山の会の存在を知ったのです。それからはたまに会員のトレーニングを手伝うことにもなったりしたのでした。心臓病で倒れた初代事務局長の中村さん、現会長の永見さん、・・・ゲレンデでのトレーニングから一の倉沢、北岳バットレス、明星山、剣岳の登攀と続いたのです。
しかし、会員の方のトレーニングはハードにという訳にはいきません。60人からの会員を擁するリーダーの皆さんであるわけですから常にセキュリティを考慮した、セキュリティを考慮するように仕向けた内容としたつもりです。これらのトレーニングにかかる講習費、ガイド料は全て秋山さんから内緒で出ていました。決して私の善意で行った無料講習や無料ガイドではなかったのです。

時はバブル崩壊、秋山さん経営の会社も危機に瀕する状態となり、会長を 加々良さんに代わったようです。中村さん亡き山の会にあっては最も信頼できる方であったようでした。代替わりして暫くすると創立10周年記念山行に北岳バットレスの登攀が計画されました。私もそのトレーニングを手伝うべく

 三つ峠で会員の皆さんの岩登り技術を指導しました。山の会でも「岩トレ」と称して岩登り技術のトレーニングはしていましたが、総合的にみて北岳バットレスを登る技術を正しくつけるのが私の役目であったようです。
その時、会長として参加していた 加々良さんを知ることとなりました。以前から秋山会長より送って頂いていた会報「山道」の表紙を版画で飾っている方が 加々良さんという方であることは知っていましたが、若干控えめな紳士の 加々良さんと話すのはこの時が初めてでした。動の秋山さん、中村さん、静の 加々良さんというのが私のイメージです。

10周年記念山行の北岳バットレスは平成13年9月19日〜20日に行われました。その様子は私のホームページにも掲載してあります。秋山さんとのパーティでしんがりを務めてくれた 加々良さんは、登れる事に半信半疑であったようです。本当に登れた、登っちゃったという喜びで一杯の様子でした。

それから3ヵ月後突然の知らせが秋山さんから届きました。すでにお葬式が済んだあとでしたのでご自宅にお伺いしてお線香をあげご冥福をお祈り申し上げた次第です。

人の寿命は遺伝子によって決まっているといわれます。そのはかない人生のなかで人との触れ合いがあり、貴重なお付き合いと思い出が残ります。遺稿集の中に高橋重夫さんの追悼文がありました。
「自分は幼くして両親を亡くしたため悲しみには耐えられると思っていたが、会長の死は心底こたえた・・・」と記していました。幼くして両親を亡くした高橋さんは、親戚のお兄ちゃんだと思って付き合っていた方が実は実の兄だったこと、妹がいていつしかどこかへ貰われていったこと、どこにいるのか分らない妹を捜して、死ぬまでに一度兄弟3人であってみたい、と話してくれたことがあります。悲しみの連続であったろうことは想像にかたくありません。その高橋さんにとっても会長の死は慟哭の思いとなったのでしょう。高橋さんばかりか新座山の会の皆さんの思いだったのかもしれません。
私は、秋山さん、高橋さんをとおして 加々良さんを知り、僅かばかりのお付き合いをさせていただきました。貴重な思い出を頂いたことに感謝するとともに、思い出を語ることで加々良さんの冥福をお祈りしたいと思います。

 昨夜(1月8日)、そんな思い出を語り合う新年会があって私も出席させていただきました。

 

 

平成16年が新座山の会、および皆様にとりましてよい年となりますようお祈りいたします。

平成16年1月9日
日本アルパインガイド協会 勝野惇司

 

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